小坂狷二

PRINCIPIA - all the knowledge of the universe publikigis antaŭ 10 tagoj

02:30

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Priskribo

小坂狷二, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1887071 / CC BY SA 3.0

#19世紀日本のエスペランティスト
#20世紀日本のエスペランティスト
#19世紀日本の翻訳家
#20世紀日本の翻訳家
#19世紀日本のノンフィクション作家
#20世紀日本のノンフィクション作家
#19世紀日本の教育者
#20世紀日本の教育者
#鉄道車両工学
#神奈川大学の教員
小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 東京市 – 1969年8月1日 東京都)は、日本の鉄道車両工学の専門家、エスペランティストであり、日本のエスペラント運動の父とも称される。
エスペラント著作ではKenĵi OSSAKAと自署した。
1901年に陸軍幼年学校に入学、士官するものの除隊し、第一高等学校を経て1916年に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業し、鉄道院(後の鉄道省)に就職。
客車、貨車の技術者となった。
1938年に退官し、日本車輌製造株式会社勤務、後に神奈川大学工学部教授を務めた。
小坂狷二は国際語エスペラントを1906年に二葉亭四迷の『世界語』により知る。
1907年に横須賀エスペラント会を再建。
1911~1916年に謄写版刷りの”Orienta Stelo”を独力で刊行。
1916年より日本エスペラント協会(Japana Esperantista Asocio)の運営に参加するも、その組織実態にあきたらず、1919年に浅井恵倫、藤沢親雄らとともに日本エスペラント学会(Japana Esperanto-Instituto)を設立。
その後、同学会が日本のエスペラント運動の中心機関となる(なお1926年に同学会は財団法人化)。
同学会事務所は東京市の小坂宅におかれ(~1928年)、機関誌”La Revuo Orienta”の編集に1925年までたずさわる。
その後、2年間の職業上の欧米滞在を経て、日本にもどってからも精力的にエスペラントの活動に参加する。
1938年の第26回日本エスペラント大会で、小坂にちなみ、顕著な活動をしたエスペランチストに贈られる「小坂賞」が設定される。
1968年、財団法人日本エスペラント学会において会長に任ぜられる。
国際的には1958年~1967年に「エスペラント語学院(アカデミーオ・デ・エスペラント)会員であった。 ^ 小坂千尋コトバンク ^ 芝川又右衛門『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

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